英語公用語化論に対して

タニ ヒロユキ

先日、小渕首相の私的諮問機関「21世紀の日本構想」懇談会の最終報告書とやらが英語を第2公用語にすることを提言に盛り込んだことが、若干話題になった。インターネットを通じた「国際化」と「情報化」の中で、日本国民すべてが「国際共通語」英語を実用語として身に付ける必要があり、そのためには公用語化を視野に入れた議論が必要である、という。
これを聞いたとき、大して関心を持たなかった。この種の言語問題には大いに関心があるが、この種のニュースにはちょっとうんざりしている。「私的諮問機関」が何を言おうと、言った、考えた、というだけでニュースにされたらきりがない。
そもそも、英語公用語化実現に展望はない。公用語になったら、英語による国会答弁も保証されることになる。文化的に保守的な国会議員たちが、自らに降りかかるこんな法律を通すわけがない。自民党議員の定年制や一票の重みの格差の是正の問題を見れば、彼らが自分にかかわる制度の改革にいかに臆する人たちか、明白である。もちろん、英語が公用語になっても、日本語も公用語であるかぎり、国会で英語で答弁しなければならない、ということはない。しかし英語での答弁も保証しなければならず、そのために、通訳だけでなく、資料の翻訳、英語の速記者なども必要になる。法律や公文書もすべて日英両言語で作成しなければならない。それは地方行政機関を含むあらゆる公共施設に及ぶ。それが公用語にするということである。要するに、膨大な費用がかかる。
もちろん、その費用を公共投資だと見れなくはない。銀行に公的資金を出すくらいだから、本気で必要な投資だと考える議員がいるかもしれない。明治期の文相森有礼がフランス語を国語にしようと提案したためしもある。では、もし英語が公用語になったら、市民生活はどうなるだろう。日本語禁止とでもならないかぎり、市民生活は今と変わりそうにない。英語が学校で強制的に教えられるだろう。でもそれは今すでに事実上そうなっている。マスコミにも英語が氾濫して、テレビ・ラジオ・新聞雑誌も英語が増える。これももうそうなっている。英会話学校が繁盛してみんな競って英語を勉強するだろう。これももうしている。公共の表示は日英両言語併記になる。これも街の標識はもうほとんどそうなっている。現在、新幹線ばかりか地下鉄に乗っても、アナウンスまで英語でしてくれる。英語はもうほとんど公用語状態ではないか。市民生活は英語が公用語になっても変わらない。つまり、市民生活にとって英語公用語化は必要ない。
英語を公用語に、という主張の根拠のひとつに、他のアジア諸国に比べて日本人の英語コミュニケーション能力が低いから実用英語能力を伸ばすために公用語化が必要だ、というのがある。これは間違いである。英語が公用語になっているアジアの国、たとえばシンガポールやフィリピンでは、英語をうまく話す人がなるほど多いかもしれない。しかし、それは公用語だから英語ができるのではなく、英語ができなければ暮らしていけない状況があるから、英語ができるのである。英語を共通語にすることによってしか国民国家を維持できないから公用語にしているのである。ではなぜそんな状況があるかというと、固有の民族語が多様すぎて他に共通語がなかったからである。なぜ固有の共通語がなかったかというと、近代の国民国家形成期に植民地支配によって分断され、支配国の国語の強制によって、近代的な意味での国民(民族)と近代国語の形成を妨げられたからである。その結果、独立後、かつての支配国の国語を公用語にする以外、共通言語がなかったのである。日本は違う。
さて、日本は違うと考えて、英語公用語化論に反発すると、すぐに出てくるのが言語民族主義と言語排外主義である。よその言葉をどうのこうの言う前に、日本人なら美しい日本語を大切にしよう;むしろ日本語を国際語として外国にも広めよう;日本にいる外国人は日本語を使え、という議論に陥りやすい。これは、英語志向の米国中心言語国際主義よりもっと危険である。なぜ危険か。外国語排斥(当然、文化と人間の排斥を伴う)の結果、外国へ自己主張はしても外国からの批判に耳を傾けなくなり、言語的に自閉し孤立する(当然、文化・人間・経済・政治的な孤立を伴う)。その結果、市民生活がどうなるかは、歴史と外国の例に明らかだろう。批判を聞くことは自虐的になることではない。それは自己の成長発展に不可欠な要素である。もう21世紀になるのに、いつになったら彼らは理解するのだろう。
英語公用語化は無用の浪費でしかない。しかし、英語を排斥して言語的に閉じこもるのは危険である。だから、英語学習は必要である。しかし日本語と英語だけで、その他の多くの言語を排斥するなら、排斥した言語の数だけまだまだ危険である。他の言語も学習しなければならない。でも、世界中の言語を学習するのは無理だ。
では、どうすればいいか。言語を排斥しないということは、世界中の言語を学習することではなく、どの言語をも強制しないこと、すなわち言語権を保証することである。そして、強制された共通語なしに孤立しないためには、強制でない中立な共通語があればよい。つまり、言語権の保証を前提とする多言語主義とそれを支える中立な共通語である。答えはザメンホフがとっくに出している。

La Movado N-ro 590 2000年4月号より